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伝説のプレーヤー

伝説のプレーヤー
このコーナーでは、伝説に残るフットボーラーを紹介します。

第一回目は、『ヨハン・クライフ』です。


ヨハンクライフ
彼は、ペレベッケンバウワーマラドーナと並び比べることが許される選手です。

個人的には、世界一のフットボーラーだと思っています(^^)
他のスーパースターとは異なりたった1度しかワールドカップに出場していないにもかかわらず評価されている選手は彼をおいてほかにはいないと思います。

また、選手としても、監督としてもバルセロナの黄金時代を築いた希代の天才です。



少年時代
1947年4月25日、ヨハンス・ヘンドリクス・クライフは、ヘームステーデに住居を構えるヘニー・クライフの次男として生まれた。
幼少のころは、ストリートフットボールに夢中になっている普通のオランダの少年でした。


7歳から本格にサッカーのトレーニングを始め、10歳になってからは、地元クラブアヤックスに入団することになります。


12歳のとき、父が他界し、その後母の反対を押し切り13歳で学校を去り、サッカー中心の生活が始まるのです。


クライフは、名監督として評価の高いリヌス・ミケルスに才能を見出され、厳しい練習のもと17歳でプロデビューをはたします。


17歳でプロデビューもすごいと思いますが、それよりも何より自分の才能に13歳で気づき,さっさと学校をやめてしまったなんて、よほどの自信があったのではないでしょうか?

プロのフットボーラー(選手)時代

19歳で、1966年のオランダリーグで優勝。

バルセロナとの移籍交渉が、決裂した後1970年〜1973年までのUEFAチャンピオンズカップでクライフ所属のアヤックスが3連覇という偉業を達成、オランダリーグは、9冠を達成。

個人的には、1971年、73年、74年の3回ヨーロッパ最優秀選手に選ばれクライフという名が世界に轟いたのです。

クライフは、優雅さ、スピード、技術的にたぐい稀な才能をもったフットボーラーです。

彼は、ゲームを作り、ラストパスを供給し、ゴールを決める役割を1人でこなしたのです。

今でいうロナウジーニョのテクニックとオーエンやロナウドのようなスピード、ジダンのようなゲームをコントロールする力とベッカムのようなロングパスで相手を翻ろうすることができるなど現代のスター選手が持つあらゆる長所を兼ね備えた選手と言えるでしょう。


ピッチの外でもリーダーシップを発揮し、自信にあふれ、自説を曲げず、敵を作ることを恐れず発言を続けました。

クライフ語?なる独自の言いかたは、常にマスコミから注目されました。

日本で言う長島監督のいいかたでしょうか?
しかも、クライフの発言が展開する独特の文法は、言語学の雑誌で記事の題材ともなり語学的に注目を浴びるようにもなったりもしました。

オランダでは、クライフの発言本が管理職セミナーの教材として使われています。


クライフ語録
『下手な選手としては、テクニックがとても上手。
だが、上手な選手としては、テクニックがとても下手』
『ボールを回せ、ボールは疲れない』
『美しく敗れることを恥と思うな、無用に勝つことを恥と思え』
『私は間違いを起こす前に、その間違いを起こさない』
『よい監督は、あるプレーヤーの短所を別のプレーヤーの長所でカモフラージュする。』


クラブでは
1964年から65年のシーズン、17歳にしてデビューを果たしました。
デビュー当時、兵役も免除されたほどやせ細っていたのですが、抜群のスピードと高速ドリブル中でもボールコントロールを失わないテクニックで身体的ハンデイはありませんでした。

特筆すべきは、ハードなタックルや酷いファールを受けても、一度も大怪我をしたことがなかったということです。

当時のビデオを見ると、とにかく脚をひっかけられたり悪筆なチャージばかりされています。

というよりそうでもしないととめられない選手でした。
これは、スーパースターの宿命なのかもしれませんね。

クライフのアヤックスでの活躍は、バルセロナのスカウトの目に留まり、1970年にバルセロナへ移籍するかと思われましたが、レアル・マドリードの横槍にスペインサッカー連盟が外国人選手に関する規定を改定し破談となりました。

しかし、クライフは、1971年から1973年まで、名称リヌス・ミケルスのもとで、トータルフットボールというそれまでのサッカー界の常識を打ち破った戦術で、アヤックスは、欧州チャンピオンズカップに3年連続優勝を果たしました。

その後、1973年、バルセロナは 200万ドルもの移籍金を支払い遂にクライフを獲得。

クライフはスペインのバルセロナに移籍し、最初の年にスペインリーグを制したのです。

また、1971年から1974年の間に3回ヨーロッパ最優秀選手に選ばれています。

1978年に一度引退を発表したのですが、1979年5月に米国のプロサッカーリーグで現役復帰しアメリカのチームデイプロマッツの一員として、日本にも来日しました。

米国では、当時、世界中のスター選手を集め、レアルマドリードのようなドリームチーム、ニューヨークコスモスにペレ、ベッケンバウワーなどを獲得し大いに盛り上がっていたのです。

クライフは、2シーズンほどアメリカで過ごし、その後スペインのチームで何試合か出場し1981年夏にアヤックスに戻ってくるのです。

そして1983年、アヤックスの宿敵であるフェイエノールトロッテルダムに移籍するのです。

現役最後となったこのシーズン、フェイエノールトはオランダリーグとオランダカップの2冠を達成。

そうです、フェイエノールトは、あの小野慎二の所属していたクラブですね。
彼は、クライフの選手生活最後のチームでプレーしていたのですね。

うらやましい(^^)
クライフは、1983年と1984年にはオランダ年間最優秀選手に選出されました。

そして1984年、20世紀オランダサッカー史上、ヨーロッパサッカー史上最高のプレイヤーは永遠にユニホームを脱ぐことになるのです。
(;〜;)
オランダの代表として
1974年西ドイツ大会は、優勝した西ドイツよりクライフ率いるオランダ代表が評判になった大会でした。

俗にいうトータルフットボールという伝説の戦術です。

それは、個々の選手が思いのままにポジションチェンジを繰り返し、渦を巻くようにチームがダイナミックに機能するというものであった。
ただ、これを可能にするには、選手一人一人が同じくらい高い技術と戦術眼を併せ持ち、なおかつかなりのスタミナが必要だと考えられていた。
さらに、動きの連続性を持ったその渦が、自ら意思を持つように前進と後退を繰り返すためには、渦の中心にいながら、渦の外からその流れを俯瞰できる稀有なビジョンをもち、渦をコントロールするだけの並外れた影響力を持った選手が必要であった。
こうしたオールラウンド・プレーヤーとフィールド内の監督としてチームを掌握できる選手を同時に揃えることは非常に困難だったので、この構想は実現不可能な単なる空想に終わろうとしていた。

これを可能にしたのが、名将リヌス・ミケルス監督に率いられたオランダ代表であり、クライフの存在なくして、完成しなかったといわれています。


1974年のオランダ代表の成績
第一ラウンド
オランダ対ウルグアイ 2−0  オランダ対スウェーデン 0−0
オランダ対ブルガリア 4−1
第二ラウンド
オランダ対アルゼンチン 4−0  オランダ対東ドイツ 2−0
オランダ対ブラジル 2−0

クライフ率いるオランダ代表は、準決勝のブラジル戦では、2−0で勝利を収めました。

この試合の内容を見たことがありますが、クライフにボールが集まるとブラジルデイフェンダーがクライフのスピードに振り切られないために、ラグビーのようなタックルをするのを見ました。


クライフは、30メートルを2,8秒で走ったそうです。

それから、有名なクライフターンもやってますね。


決勝の西ドイツ戦では、開始わずか1分でハーフラインからクライフ一人に華麗で緩急のついたドリブルで振り切られ、ゴール前で最後に西ドイツの選手に足をひかっけられ止まったのです。


このビデオも見ましたが、西ドイツの選手は1度もボールに触れていないのですよ。

彼のプレーを1度でも見た人ならわかりますが、ドリブルが始まると足をひっかけるか
しないかぎりとめられないのです。


その後、PKを得たオランダが1点を取り試合が続きました。


すごかったのは、クライフのマークについたフォクツです。
反則すれすれでクライフをマークしていて、クツ紐を結ぶときでさえピタリとそばにいました。


結局、ライバルベッケンバウワー率いる西ドイツが、ゲルト・ミュラーが勝ち越し点をあげ、勝利しました。

ただ、人々の記憶にポジションにこだわらないトータルフットボールという概念が取りざたされるきっかけとなった大会でした。


クライフは、オランダサッカー協会との確執や家族と離れたくないという理由で次の
アルゼンチン大会には出場しませんでした。


監督として
バルセロナでは、クライフはすぐにチームの再建に取り掛かる。
ドイツ人のベルント・シュスターなど10人以上の選手を放出し、1500万ドルを費やして新しいスターと契約しまもなく、バルセロナはヨーロッパのトップチームに生まれ変りました。


スペインカップ・欧州カップ・、チャンピオンズリーグ、ウィナーズカップに優勝し、1991年から1994年までスペインリーグを連覇しました。


そして、スペインでこのチームは「ドリームチーム」として知られるようになったのです。


しかし、クライフは、心臓の障害など健康の理由から監督業を退いたのです。

バルセロナでは、彼の監督としての力量が今も伝説になっているのです。


選手成績

所属クラブ
1964 - 1973: アヤックス アムステルダム (オランダ)
1973 - 1978: FC バルセロナ (スペイン)
1979: ロサンゼルス アズテックス (アメリカ)
1980 - 1981: ワシントン ディプロマッツ (アメリカ)
1981: UD レバンテ (スペイン)
1981 - 1983: アヤックス アムステルダム (オランダ)
1983 - 1984: フェイエノールト ロッテルダム (オランダ)

クラブ成績
アヤックス
1965/66 オランダリーグ優勝
1966/67 オランダリーグ優勝
1966/67 オランダカップ優勝
1966/67 オランダリーグ得点王
1967/68 オランダリーグ優勝
1969/70 オランダリーグ優勝
1969/70 オランダカップ優勝
1970/71 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1970/71 オランダカップ優勝
1971/72 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1971/72 オランダリーグ優勝
1971/72 オランダカップ優勝
1971/72 オランダリーグ得点王
1972 UEFAスーパーカップ優勝
1972 インターコンチネンタルカップ優勝
1972/73 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1972/73 オランダリーグ優勝
1973 UEFAスーパーカップ優勝
1981/82 オランダリーグ優勝
1982/83 オランダリーグ優勝
1982/83 オランダカップ優勝

バルセロナ
1973/74 スペインリーグ優勝
1977/78 スペインカップ優勝

フェイエノールト
1983/84 オランダリーグ優勝

監督暦
1985-1988:アヤックスアムステルダム
1988-1996: FC バルセロナ

監督成績
1986 オランダカップ優勝
1987 欧州カップ・ウィナーズカップ優勝
1987 オランダカップ優勝
1989 欧州カップ・ウィナーズカップ優勝
1990 スペインカップ優勝
1991 スペイン選手権優勝
1992 欧州チャンピオンズカップ優勝
1992 欧州スーパーカップ優勝
1992 スペイン選手権優勝
1993 スペイン選手権優勝
1994 スペイン選手権優勝

個人タイトル
1971 欧州年間最優秀選手
1973 欧州年間最優秀選手
1974 欧州年間最優秀選手
1999 欧州20世紀最優秀選手

クライフは、欧州年間最優秀選手を3回受賞しました。

ちなみに、欧州20世紀最優秀選手はクライフでした。

フィーゴ、ロベルトカルロス、ジダン、ラウル、など1990年代に大活躍の選手、80年代ではマラドーナ、70年代のベッケンバウワーなど活躍しているスーパースターをおしのけての受賞というのは、それほど彼のプレーが人々の脳裏からはなれないほどすばらしかったといえるでしょう。


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